わたしのせかいについて2
「私の世界」は「私の見える範囲」をいう。
できれば誰にも汚して欲しくないものだ。
でも私の世界は私だけの世界ではないようで、
私の世界に他人が作り出す感情や声や音や色、表情、言葉、においなどが存在する。
邪魔なのだ。
例えば電車だ。広告、アナウンス、話し声、隣に座る他人。どれもうるさい。
「見える範囲」はわかりやすいが、「聞こえる範囲」を意識したことはあるだろうか。
私は見える範囲はもちろん、「私の聞こえる範囲」を汚されるのがいやだ。
耳栓をしてアイマスクでもしていればいいのだろうか。
耳や目、鼻など、何かを感じ取る部分の全てにスイッチがあればいいのに。
目には瞼があるから大丈夫と思いがちだが、残念ながら瞼を閉じていても、明かりがある限りスイッチを切ったことにはならないのだ。
引きこもっていた時期も部屋の外からの作用は果てしなくあった。
それが自分のスイッチを切り替える要因になったこともあるが、
諸悪の根源はどこにあったかを思い出せばそれもまたなんとも言えない。
自分ではない誰か、つまり他者との共存は自分には難しい。
「成長しながらなんとなく学んでいくもの」の不確かさ、そして「それが確実に求められる社会」の傲慢さに憤る。
「私(だけ)の世界」は存在しないのだ。
作ろうとしても作れないのだ。
避けようとしても避けられないのだ。
自分でスイッチを切る他に手段はないのだ。
そんなことを考えすぎて人生に絶望し人は自殺する。
「私(だけ)の世界」はあるのだろうか?
現状はとりあえず「私の世界」を「私(だけ)の世界」であることを希望的観測で信じ続けるしかないのだろう。
おかしくて笑える。