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わたしのせかいについてかきます

わたしのせかいについて

表現の自由があるってどこかで習った。

学校は嫌いだ。

 

最近世界がガラリと変わった。

運もいい。

 

「私の世界」の定義は私が見ることのできる範囲全てを言う。

 

世界が変わって思ったことがある。

はたして「私の世界」はあるのか。

 

死について聞くことが多くなった。

死とは何か。

「なぜ人を殺してはいけない?」という問いがある。

「人の命を奪ってはいけないから」。

人の命って何だろうか。

 

私の家には小さい頃からゲーム機があった。

ゲーム機には電源、いわゆるスイッチがあった。

「自分がゲームをしているとき、いきなりスイッチを切られたらどう思う?」

「いやだ、むかつく」と思うのだろうなというのが今までの考えだった。

今はいろんなことを見聞きしたり読んだりして、

「別になんとも思わない」だったり「むしろよかった。ラッキーだ」

というような答えもあるのではないかと思うようになった。

 

何かに囚われていて、自分の力ではそこから逃げられないとき、

自分ではない他の何かがスイッチを押してくれる時がある。

なぜ「他の誰か」ではなく「他の何か」か。後述する。

 

私は浪費家だ。手元にあるもの(スマホの電池とお金)は無くなるまで使う。

例えば、眠たいけれどスマホで何かをすることをやめられないとき、

スマホの電池がなくなったとする。「ラッキー」だ。他のことができる。

例えば、別にいらないと思ってもほしいものがあるとき、

財布を見るとお金が足りない。「ラッキー」だ。買わずに済む。

 

そんなふうに、自分ではない他の何かが作用して、私のスイッチを切ってくれることがある。

 

では命はどうか。

この世で最も重いもの、尊いものだとされている命。

生きるか死ぬかなので、私は先ほどのゲーム機の話にもあるようにスイッチと表現する。

「スイッチを切る」行為。もし死後の世界やパラレルワールドを信じるのなら、「スイッチを切り替える」行為。総称すれば「スイッチを押す」行為か。

 

殺人について奨励するつもりは全くない。

倫理的にちょっとこれは、と思う人の方が多いだろう。

あくまで「表現の自由」があるから言う。

 

私は思う。

殺人は「私の世界」が「私(だけ)の世界」ではなかったことを証明する手段なのではないか。

先ほど「他の誰か」ではなく「他の何か」という表現をした。

なぜか。

「他の誰か」というのは「私(だけ)の世界」には存在しないのだ。

例えば道徳の授業か何かで「人を殺してはいけません」というのではなくて、

「ここにはたくさんの人がいて、それぞれに命というものが原動力の『世界』があります。」というものを教えて欲しかった。

 

「私だけの世界ではないのだ」と思うことがあるけれど、私はそれを証明できない。

証明する手段は「他人によってスイッチが切られること」である。

自分ではない誰かに殺されてみないと「私の世界」は「私(だけ)の世界」であることを誰も証明できない。

 

不思議というよりは、おかしくて笑える。